そのスケジュール感のニュアンス感には困り感がある 其の2
(承前)
そんなわけで、社会人になって「スケジュール感」なる言葉にひとしきり困惑した私であったが、
前記事のごとく解釈に憶測に邪推をつけてやっと、一応の納得「感」とともに喉に引っかかった魚の骨を飲み干したのである。
しかし、「感」と私のいたちごっこは終わらなかった。
次に私を待ち受けていたのは、
「ニュアンス感」という曖昧さの無間地獄。
前記事において、スケジュール感の謎に考察を加えた際、最終的に「感」には漠とした「イメージ」という意味合いを読み込んだところであった。
突き詰めると、スケジュールに「感」をつけることには、
もちろん、断言を避けてぼかすという文化が表れているともいえようが、
それはスケジュールのようなものではあるけれども厳密な意味での正式なスケジュールそのものではない、
と宣言する意図が込められているともいえよう。
(本質的に宣言という"強い"出方を避けているのでしょうけれどもね、そこは少し皮肉(笑)。)
さて、ここでニュアンスとは。
まずG先生に訊いてみたところ、
「色あい、音の調子、意味、感情などの、ごくわずかでありながら、相当に違う感じを与えるような違い。」とのこと。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/ニュアンス-592954)を参照すると、上記のうち「意味、感情」は区別され、これらには、言葉の奥にある当該意味、感情ないしは意図、という意味もあるそうだ。
…おやおや??
ということは、「感」自体が、
字義通りの意味における「ニュアンス」を出す言葉そのものでもあるのではないか?
ここで私は、「感」という言葉に、してやられた感に打ちのめされた感を覚える。
せっかく、「感」とは、ニュアンスを生じさせる言葉だと尻尾を捕まえていた気になっていたのに、
「ニュアンス」という概念自体にもニュアンスを生じさせてしまう「ニュアンス感」という言葉の無限ループ感。
嗚呼、ニュアンス感とは何ぞ。
言語化には及ばない、単なるノリとしての「それっぽさ」、
言葉にはしない(できない)けれど伝わるでしょ?と「言わん」ばかりに、その意図や意味を薄く広く延ばし、共感(その実単なる表面的な賛同ないし承認)を求めてくるあの感じ。
明確さを好み、曖昧な共感を拒否する者の首を絞める真綿であったのか。ニュアンス感は。
上記G先生による定義における、「ごくわずかでありながら、相当に違う感じ」の"相当に違う"という事実やその差異自体をもぼかし、曖昧にしたいのだろうか。
前記事で触れた「感」の付く言葉の具体例、
きちんと感や大人感ですら、
そのように表現する前提には、きちんとしているもの、大人っぽいものの存在が、まだしも意識されていた。
スケジュール感だって、その根底にはスケジュールそのものの存在があった。
ニュアンス感には、その根底に、上記の辞書的な意味におけるニュアンスが存在するのかどうかもよくわからないではないか。
少なくとも、私がニュアンス感という言葉を聞くときには、文脈上、「なんだかよくわからないけれど」何となくこんな感じ、という「気分」を表現している以上の意味合いはないように感じる。
ニュアンス感という言葉で表現される何かに反応して、他人と共感ないし同意ができたと思っているとき、本当に意思疎通はできているのだろうか。
ニュアンス感という言葉に心が動いたとき、その内実を具体的に考えなければ、自分の思考すら気分に支配されるほど、どんどん曖昧なものになってしまう気がする。
ニュアンス感の曖昧模糊とした意識に絡め取られ、どこに向かうかわからなくなってきたところで(という言い訳(笑))、今回は筆を置く。
(パート3に続く)